第5話「学んだ方が早い、と思ったのが間違いだった」

アメリカンドリームの後始末

眠れない夜は、辞めた仕事より先にやってきた。

もみほぐしの収入がどうにも安定しない頃から、将来への不安が頭から離れなくなっていた。布団に入っても、頭の中で電卓を叩く音が止まらない。気づけば朝で、また同じ数字を数え直す一日が始まる。

近所のメンタルクリニックに通い出したのは、この頃だ。

「アメリカで市民権まで取った男が、日本の内科より小さい待合室で順番を待ってる」

我ながら、笑えない冗談だと思った。処方されたのは、おそらく睡眠導入剤と呼ばれる類の薬だった。効果は覿面で、拍子抜けするほどよく眠れるようになった。ただし、眠れるようになった代わりに、生活はすっかり昼夜逆転していった。太陽の下で動く時間はどんどん減り、体調は目に見えて悪くなっていく。アトピーも相変わらず、というより以前より悪化しているようにすら感じた。


そんな状態のまま、もみほぐしの仕事はついに辞めた。

代わりに本腰を入れたのが、せどりだった。アメリカ時代からずっと続けていた副業で、これしかないという感覚もあった。

昼夜逆転した生活のまま、毎日PCに齧りついた。仕入れ、リサーチ、出品、梱包、発送。太陽を浴びない日々と悪化する一方の体調のまま作業しても、利益は驚くほど積み上がらない。当たり前だ。まともなコンディションでもない人間の判断力なんて、機能するわけがない。


そんな折、事故は起きた。

配送作業でも何でもない、ただの日常だった。家の近くの、何度も通ったことのある下り坂。自転車のスピードが、いつもよりほんの少し出ていた。ブレーキをかけたはずが、間に合わなかった。バランスを崩し、そのまま顔から地面に突っ込んだ。

気づけば、口の中が血の味でいっぱいだった。手で触れると、顎がぱっくりと割れているのがわかった。

病院で顎を5針縫った。鏡を見て、正直、笑うしかなかった。昼夜逆転、収入不安、そして顎の傷。人生でここまで「ついてない」を体現した時期はなかったと思う。

娘たちには「大丈夫だから」としか言えなかった。本当は全然大丈夫じゃなかったけど。


普通なら、ここで立ち止まるべきだった。

だが、傷が塞がる前から、また「稼げる方法」を探し始めていた。生活リズムが狂って判断力が鈍っていたのもあるし、単純に、立ち止まったら終わりだという焦りの方が勝っていた。

情報収集のつもりで、無料セミナーというやつに何度か顔を出した。せどり、転売、物販ビジネス。似たような言葉が並ぶセミナーを、いくつもハシゴした。

この頃、海外転売というものが一種のブームになっていた。日本の商品をebayで海外に売るビジネスだ。そしてここで、久々に自分の「強み」を感じた。アメリカにいた人間として、ebayは使い慣れたプラットフォームだった。在米時代に副業でやっていたこともある。これは自分に有利な戦場だ、と。根拠のない自信が、久しぶりに顔を出した。

さらに、そのスクールが推していたのが「無在庫販売」という手法だった。先に仕入れるのではなく、まずネット上に出品してしまう。売れてから初めて仕入れて発送する、というやり方だ。グレーだとは、うっすらわかっていた。でも「グレーを知った上で使いこなせるのが、賢いやり方だ」と、いつの間にか思い込んでいた。追い詰められた人間というのは、自分に都合のいい解釈だけが、やけにクリアに見えるらしい。

学べば学ぶほど、不思議なことが起きた。

知識が増えるはずなのに、「自分はまだ何もわかっていない」という焦りだけが増えていく。独学の限界を感じる、というやつだ。顎の傷跡がまだ引きつる顔で、真剣にメモを取っている自分を、今なら少し笑ってやりたい。


YouTube広告で、何本も似たような動画を見た。

「せどりで月収100万円」「初心者でも再現可能」。うんざりするほど同じ言葉が並んでいたのに、なぜか信じてしまう自分がいた。生活リズムが崩れたままの日々が続くと、人はきっと、藁でも掴みたくなるんだろう。

「まずは無料相談から」というLINE登録。今ならわかる。この「無料」の二文字こそが、罠の始まりだった。

登録した数日後、個別相談という名の営業を受けた。画面の向こうの人間は、やけに親身だった。昼夜逆転の生活のこと、収入のこと、顎の怪我のことまで、聞かれるままに話してしまった。それから「あなたは十分頑張ってる」「あとは正しい方法を知るだけ」と、畳みかけてきた。


手元に現金の持ち合わせはなかった。

だから、カードで払った。

「すぐ稼ぎで返せますよ」

この一言を、今でも覚えている。追い詰められた夜に、この言葉がどれだけ都合よく響いたか。稼げなかった人間が、この言葉をどれだけ聞かされてきたか、当時の自分は想像もしなかった。

前に手を出した情報商材と合わせて、総額80万円。


不思議と、契約した瞬間に劇的な感情はなかった。

後悔も、興奮も、あまりなかった。ただ「これで前に進める」という、根拠のない安堵感だけがあった。人間、追い詰められると、判断力よりも「早く楽になりたい」が勝つらしい。顎の傷跡と一緒に、そういう教訓だけが残った。


結果から言えば、何も変わらなかった。

学んだ手法は、YouTubeで無料公開されている情報とたいして変わらなかったし、稼げる保証などどこにもなかった。当たり前だ。稼げる方法があるなら、他人に売る必要がない。


借金だけが、静かに増えた。

昼夜逆転は治らず、顎の傷は跡になり、アトピーも相変わらずだった。

そして、心と身体はもう、限界に近づいていた。


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