日本を出たのは22歳のときだった。
それから20年、アメリカで寿司を握り、古着を仕入れ、マッサージをして食ってきた。会社員として働いたことは、一度もなかった。
正直に言えば、「会社員」というものが大嫌いだった。満員電車に揺られて、上司に頭を下げて、決められた時間に決められた場所にいる。そういう生き方を選ばなかったからこそ、アメリカに渡ったようなところがある。
帰国してからも、その意地だけは持ち続けていた。せどりをして、もみほぐしをして、軽トラで街を走った。うまくいかなかったが、雇われるという選択肢だけはどこか遠かった。
遠かったが、もう限界だった。
40過ぎのおじさんに、仕事はなかった
求人サイトを開いた。アメリカでの経験を活かせる仕事を探した。英語を使う仕事も見てみた。ただ、特別な学があるわけでもない。マッサージの資格はあるが、日本では使えない。
古着の買い付けをしていた経験から、リサイクル関係の会社ならと思い、片っ端から応募した。
返事が来なかった。
来ても、面接で落ちた。40過ぎのおじさんが、職歴の説明に詰まりながら「アメリカで20年…」と言っても、面接官の顔は動かなかった。仕事を見つけることの大変さに、じわじわと打ちのめされた。
それでもなんとか、採用された。あれだけ嫌っていた「会社員」に、43歳で初めてなった。
クリーンな会社のはずだった
会社の規模は20人前後。社員は少なく、バイトが多かった。
広告のキャッチコピーはこんな感じだった。「おうちの片付けの品を再利用させていただくので、作業代は安く済みます。」
なるほど、クリーンだ。不用品をリサイクルする、社会的にも良さそうな仕事だ。そう思った。
そう思っていた。
産廃業だった
現場に出て、すぐわかった。これは産廃業だ。ゴミ屋の仕事だ。
個人宅のお片付けもあった。家丸ごとのお片付けから、大きな家具や家電の回収まで。その部分は、まだよかった。
問題は、残り半分だ。
建築現場の廃材回収。釘の刺さったままの木材を抱える。重たい石膏ボードを積む。コンクリートガラを搬出して、処分場へ廃棄する。
体力には自信があったつもりだった。若い頃は建築現場のアルバイトで鳴らした身体だ。もみほぐしの仕事だって、立ちっぱなしの肉体労働だった。
だが、43歳の体で挑む産廃現場は、まったく別物だった。こんな仕事をするとは、想像したこともなかった。その現実を、受け入れるしかなかった。
トラックから落ちた
案の定、体がついてこなかった。
働き始めて1ヶ月目のことだ。トラックの荷台から、慣れない積み込み作業をしていて、足を滑らせた。
落ちた。
鎖骨を強打した。人生で初めての骨折だった。
痛みよりも先に、頭に浮かんだのは「これからどうする」だった。
鎖骨の骨折はギプスがつけられない。固定のしようがない部位なのだ。そして、社員として雇われたばかりのわたしには、労災も下りなかった。
しばらく、内勤として働くしかなかった。
皮肉な現実
あれほど嫌っていた「会社員」という枠組みに、よりによってこんな形で入ることになった。それも、底辺と言われるような肉体労働で。
その皮肉が、じわじわと堪えた。
休みの日は、寝るだけで終わっていった。回復するだけで、一日が消えていく。生活するお金は、少しずつ安定してきた。だが、心は不安定なままだった。
案の定、体も壊した。アトピーは相変わらず大変な状態で、それまでなったことのない症状が出て、短期だが入院もした。
1年半で、区切りをつけた
1年働いて、確信した。このままは続けられない。
仕事には慣れた。生活もそれなりにできるようになった。でも体が、続けることを許してくれなかった。
暑くなる夏前まで、と早めに会社に伝えた。
妻は大反対だった。次が決まっていない状態で辞めることへの不安は、もっともだった。何も言い返せなかった。
ただ、体を考えたら正解だった。今ならそう言える。
一年半かけて、ようやく分かったことがある。会社員も、自分で稼ぐのも、しんどさの種類が違うだけだった。
→ 第9話へ続く

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